手話歌について


[手話歌]というものがある。
流行の歌、童謡などに手話をつけて歌うものだ。
手話サークルなどでも、何かイベントがあれば必ずといっていいほど出てくる手話歌。 幼稚園では情操教育に手話を取り入れると効果があるということもあって、 まずは手話歌を子どもたちに教えている。 結構流行っているようだ。

私は歌を歌うのは大好きである。
履歴書などに趣味を書く欄があれば必ず「歌唱」と書く。 流行の歌謡曲でも、童謡でも、なんでも暇さえあればくちずさんでいる。 一日中歌ってても飽きないくらい、歌がスキ。 できれば歌手になってもいいとさえ思っている。
でも、私はこの手話歌というものはあまり好きではない。 なぜなら、それをやっている意味というのがよくわからないからである。

手話歌の効用というのは
1.手話というものがあることを世間一般に広められる
2.歌の歌詞が聞こえない人にもわかるようになる
3.聞こえない人も一緒に歌が歌える
の3点になると思う。
しかし、この3つの効用のうち、1と2ははっきり言って疑問である。

まず、2.からいくが、確かに直訳すれば聞こえない人にも歌詞がわかるようになる。 しかし、歌詞を直訳したものを歌のリズムに乗せる、 なんてことは難しくてなかなか簡単には出来ない。
そこで、手話歌を作る多くの場合、歌詞の意味をとらえて、 手話に直していくということになる。
さてここが問題。歌の意味を捉えて、というが、 案外に歌詞の意味というのは捉えにくいのである。
奥が深かったり、裏の意味を含んでいたりと、容易にとらえることは出来ない。 しかし、歌の歌詞は「その言葉」で作られているのである。
ということは訳す、という作業を入れてしまうと、元々の歌とは違ってしまうのである。作者の意図を超えて違うものを伝えようとする手話歌を歌う人達、
その違うものを伝えらる聞こえない人達、、、これは正しい姿なのか?
とても疑問である。

そして1.手話を広められるについては、確かに、手話というものがある、 ということは認識できる。しかし、手話歌の手話は手話ではない。 あれを世間一般の人に手話だと思ってもらっては困るのである。
手話歌の手話は一種の「舞い」である。 誰かに何かを伝えようとする意図というのは薄い。 つまり言葉としての要素が薄まっているのである。
それを聞こえない人達が使う言葉だ、と思ってもらっては困る。
というか、手話歌を最初に手話だと思い込んでしまうと、 手話が何のためにあるのか、という意味がわかりにくくなるのである。
特に、観客や演者に聞こえない人もいないのに歌に手話をつけようと するにいたっては、何がしたいんだと良識を疑ってしまう。
それと、手話サークルなどで手話歌をやると、その歌を覚えただけで 手話を覚えたような気になってしまう人がいるというのも大きな問題である。 それだけはやめてほしいと思う。

と、こうして異論を挟めてしまうところに、 手話歌の奇妙さと納得できない部分が合って、 私にはあまり好きになれない。
特に健聴者がやって自己満足に陥っている事に関しては 「いい加減にしてくれ」と思う。

だが、聞こえない人も一緒に音楽を楽しみたい、という気持ちはわかる。
歌が気晴らしになり、楽しいものであることに聞こえるも聞こえないと思う。
それは私も歌が好きだから、なんとか一緒に楽しめないものか、と思う。

それならばやり方はいくつかあると思う。

1つは、既存の歌に手話をつける場合には それが元々の歌とは別物である、と割り切って 自分たちのオリジナルだと思って思いっきり歌って踊ってしまう。
著作権的には大いに問題ありかもしれないが、 これならどんな歌だってOKである。
しかも流行りのものでも楽しめる。
セミプロ的に手話ライブを開いているようなグループは このような方法で聞こえる人も聞こえない人も一緒に楽しんでいる。

もう一つの方法は、最初から手話をつけて歌を作ってしまう。
リズムも歌に合うように完全なオリジナルな曲をつくってしまうのである。
これなら何にも問題はない。歌の意味ももともと手話だから 誤解を与える心配もないし、聞こえない人も意味を確かめながら ちゃんとした音楽として楽しめると思う。

さて、このような歌が全国的にヒットしてしまえば、 流行の曲が手話で歌える、ということになるのだが、 そんな歌を作ってくれる人いませんか?
(お前が作ってみろ、って言われそうだ、、、。)
って言いたいところだけど、 やっぱり歌って大きな声で歌うから気持ちがいいものなのである。
その大きな声に自然につく振りだったら問題ないんだけど、決められた振りと 一緒に歌うのならば、やっぱり窮屈な気がするかもしれない。

だから究極なのは、手話だけで歌える歌を作ってしまうことだろうか。



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