2002年5月号の裏話

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  今回の原稿は、野球で言うところの「ローテーションの谷間」的な原稿である。本当に書きたいことは他にあったのだが、それは時期尚早ということやめて、思いつくままに書いていたら、なかなかそれもまとまらなくて、結局2本ほどボツにしてしまった。1月から4ヶ月も開いたのが悪かったのかもしれない。おかげで3度目の正直という感じで書いた結果、力作の4ページとなってしまったのである。(ホントは3ページくらいに収まっていたのだが、ある人から「文字だらけで読みにくい」と言われたので、行間を開けるために4ページにしてしまった。)4ヶ月の間に土屋賢二さんの本ばっかり読んでいたら、何だか文体も影響受けちゃってるし・・・

  裏話と言っても、今回は原稿自体が裏話的で、私の普段の学習の準備の仕方について書いてみた。けれども実際のところ、あのような思考回路を毎回辿っているわけでもなく、あれを確実にこなせるのは年に2、3回くらいだと思う。「時間がないとき」というのは、ほとんどの場合がそれに当てはまるので、細かい内容を考えるのはかなり切羽詰った形で考えている(でも、時間がない時って言ったって、だいたいが火曜日は休みの日なのに、半日くらいは学習の内容を考えたり、準備に費やしたりしている。(3)を考えるのはそれほど大変ではないと言いつつ、この半日のほとんどは(3)のための文章を考えて、手話的に翻訳し易いかどうかを検討している。まじめにやるとかなりハードなボランティアだと言うのは自分でも思ってる。)。おまけに、「効率的に学習をするには、狙いは確実に必要」と言いながら、狙いより先に方法の方が浮かんでいて、それに狙いをくっつける場合も結構ある。本来、私の中にはマニュアルなど存在しないのである。
  私は手話以外でも何でも、人から教わったら、次にそれをどうやって人に伝えるかを考えている。それを考えることによって私の頭の中で消化、吸収し、自分のものにして、自分の形を作り出している。実際に人に教えるとより理解は深まり、自分の中に定着する。逆に言えば、私は人に教えないと覚えられないのかもしれない。常々それが普通になっているので、人に教えることを苦とも思わないし、どんな新しいことでも、教わったら、即、人に教えるということが可能になっている。これって結構特殊な思考回路になっているらしい。でも私にできることだから誰にでもできることだと思う。
  いつまでも私がいないと何もできない、では困るのである。私がいなくても、みんなが私のノウハウを少しでも得てくれたなら、学習の準備だって誰でも出来るようになる。そうなれば、特に誰か特別な担当が荷を負うことはなくなるのだ。とりあえず学習に関してやってみて、次に行事、という形でやっていけば、そのうちサークルに役員なんて要らなくなる。それが本当の狙いではあるのだが、果たしてそううまくいくものか? でも少しずつでも出来れば私の望みは達成されるのだ。
  私が人にものを教えるのに、気前よくやってしまうのは、誰にでも同じことが出来るようになって欲しいからである。私は知識の出し惜しみはしないから、みんな早く私と同じレベルくらいにはなりやがれって感じ。つーか、そこに労力をかけたら、人間は進歩しないだろうと思う。情報保障が達成されてから初めて議論が始まるのに、情報保障の方法を学んでる時間が長いと、いつまでも議論は始まらない。何の為に学習してるのかわからなくなってしまうではないか。目的を達成する為の「手段」はさっさと手にしなければならない。手にした知識は軽く人に分け与えて、より多くの人がさらに進化できるようにするのが私の役目だと思っている。私の持論は「教育は無償」なのである。ま、教育論については別のページで熱く語ろう。

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