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先日、NHKでもおなじみの井崎哲也さんの講演会が行われました。さすがに有名人。椅子が全然足らないほどに盛況となりました。話の内容もさることながら、私が感動したのは、井崎さんの交流会での姿勢。やるき茶屋で行われた交流会。人数が多いため、テーブルが3つほどに分かれていたのですが、井崎さんは1つ所に腰を落ち着かせることなく、3つのテーブルを回り、みんなと話ができるように自ら動いてくださったのです。こんなゲストは初めてでした。講演会後の交流会は普通の交流会と違い、ゲストを囲んで、ゲストと話をするための、いわば講演会の続きのようなものです。しかし今まではたいてい、ゲストは一度座ると席を立つことなく、そこで話をします。これはゲストが悪いわけではなく、話をしたい人がゲストのところに移動する、という形になるのが一般的でした。でも、ゲスト自らが気を利かせて呼ばれたところの団体でみんなと話をする。「自分と話をするためにここに来ている人がいる」、ということを考えての行動。こういうことができる人であればこそ"コミュニケーション"についての何たるかの話も納得ができるというものですね。 さて、ここからは私の話なので、あまり納得できない話かもしれませんが…。 井崎さんもお話の中で「コミュニケーションの幅を広げること、その人にあったコミュニケーション手段を通して会話ができることが大切なんだ」とおっしゃっていました。手話サークルに通っていれば、とかく聞こえない人とのコミュニケーション手段は「手話だけ」だと思い込みがちですが、実際には口話も使えば、筆談や空書、身振りや表情によってある程度の意思を伝え、会話を交わすことは可能ですよね。そうしたことを忘れて、ただひたすら「私は手話ができ出来ないから聞こえない人と話ができない」と思い込んでいるのは愚かなことです。大切なのは「話をしたい」という意思があるかどうかなのですから。 ただここで勘違いが生じてくることに「通じればいい」という考え方を持ってしまう人がいます。特に手話の上達をあきらめて?しまった人の中に、「下手な手話でも通じさえすればいい」という言い訳にも似た考えを持っている人がいます。確かに一理はあるのような気がするのですが、果たして本当にそうなのでしょうか? 下手な手話は本当に「通じている」のでしょうか? 口話の読取をする時に「たまご」「たばこ」「なまこ」のような似たような言葉は非常に読取りにくい、という話がありました。でもそこまでいかなくても、口がちょっとしか動かない人とか、早口の人などは読取が難しくなります。こういう人と話をするとき時には、労力が伴います。確かに通じるかもしれませんが、話し終わった後には「もう2度と話をしたくない」と思ってしまうかもしれません。それって、本当に通じたことになるのでしょうか? 手話でも同じです。「予定」「計画」「設計」の手話を表し分けてみろなんて意地悪なことを言う人は置いておくとしても、妙に手の動きが小さかったり、似たような動きが多かったりするような人の手話は読取りにくいです。やっぱりそういう人と話をするのは疲れます。結局手話じゃなくて、口を読取っていたりして、手話って口話を読取るためのヒントだったの? という感じの話になってしまいます。それじゃあ手話で「通じた」ことにはならないのではないでしょうか? 話をしたいという意思をもつこと。気持ちを通じさせたいと思うこと。それはとても大切なことです。それがないと始まりません。でも、相手に労力をかけて通じることを望むのは、単なる身勝手にもなりかねません。私たちが手話を勉強しているのは何のためなのでしょう。それは聞こえない人と「スムーズに通じること」を目指しているからなのではないでしょうか。聞こえない人は口話を訓練していることを知っています。口話だって通じさせることは出来ます。けれどもそれじゃ聞こえない人だけの負担になるから、より良いコミュニケーション手段を求めて手話をやっているのではないでしょうか。それなのに、その手話でさえ負担をかけるような形で話をしていていいのか? 「通じればいい」の言い訳の中にそうした疑問が見え隠れする人には、「あきらめるにはまだ早いんじゃないの?」と言いたくなってしまいます。いかに話しやすい手話を身に付けるか。それが本当に「通じる」ことへの道だと思います。 最後に、かつて私が「通じればいい」的に上達を棚上げしようとしていた時に、K元リーダーから言われた言葉を紹介しておきます。 「技術の伴った優しさこそが、本当の優しさなんじゃないかな・・・。」 |
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