| 『至考学』、、、それは「美味しんぼ」の『至高のメニュー』とは関係ない。 |
| 「人は考える葦である」と言ったのはかの有名な(かどうかは知らないが 一応一般常識的な知識としては知られている)パスカルである。葦かどうか、 その比喩の根差す深いところは置いといて、人はとりあえず考える動物 であることに間違いない。して、その人には考える知能があり、考えるところ は無限に奥深いものがあると思われるのに、なぜに人は単純かつ一つの到達点 を見てしまった宗教を信じるのか? ということに私は疑問を抱かずにいられ ない。 |
| かく言う私は宗教嫌いである。だって宗教って「神や教祖に祈ったり すがったり頼ったりする前に、自己として、人としてやるべきことを 全うしているかを問われていない」感じがするし、「神や教祖を信じて、 人として他人を理解し、信じあう心に欠けている」という疑念の余地がある。 だって「自分を愛するように隣人を愛す」が「神と同じように」隣人は 愛さないのである。神より隣人は下なのだ。私ならばどこにいるかわからない 神よりも、隣人や自分、人を愛したい。 |
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今でこそ、日本ではこの世で最悪の邪教のように忌み嫌われている
“オ○ム真理教”であるが、かつて千数百年前、1人の肉嫌いな男の
生み出したイ○ラム教なる宗教は、「聖戦」の名のもとにこの歴史上、
数億人の人類を殺しまくっているのに、今では世界の大宗教の地位を築き、
特に問題視はされていない。また「神の子」であって「神」ではないのに
その宗教上に名前を残してしまったキリ○ト教、に伝わる「聖骸布」では、
そこに見える毛むくじゃらな青年(なのかな?)は、少し太らせれば
“麻原○晃”にソックリと思うのは私だけだろうか?。そう考えると、
“オ○ム真理教”だって、千年後には世界一の宗教になっているかも
しれないのである。 (ここで一言断っておくが、私は“オ○ム真理教”に加担しているわけでも なければ、もし彼らがあの事件を起こしたのであれば、許されることではない と思っている。また、宗教を馬鹿にしているわけでもない。ある程度敬意は 抱いているし、嫌いなのは個人の趣味嗜好の問題なので、その辺はご理解 いただきたい。決して、これを読んで誤解しても掲示板に「馬鹿」とか 「死ね」とか書き込まないで欲しい。悲しいから。) |
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ではその宗教を嫌う私の考えるところとは何か? 人類の英知を絞って
神を超えることはできるのか? 「考え至るところはどうなるのか?」
ということから『至考学』という学問を開くことにしたのである。 宗教との対比ということで、やはり考えるところは物事の「真理」と 「愛」である。これから私が考え至ったところの「真理」と「愛」を 随時開示していき、また人々に問いかけていきたい。 |
| (いうなればこれも私が考え生み出すところの一つの宗教、「ZYOYA教」かも 知れないが、実践が伴わないのでそこが宗教とは違う。ちなみに、実践を 伴う私の考えるところとして、『至考学』とは対の『実践哲学』もあるが、 こちらは“実践”なだけに書き留めるものではなく、また全くの対極になる ものでもあるので、ここでは控えさせていただく。) |
予告:第一弾はこれ!