不運を呪うしかないのか?

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NHKで秋葉原の事件の特集をやっていた。
あれからやはりこの事件についてはいろいろ考えていて、彼がなぜそうなったのかとか、まさに番組でも触れていたようなことをつらつらと思っていたというか、まぁ私としてもいろいろあるもんで、いろいろ思わざるをえなかったというか、そういうことで、正直、なーんか気分は優れないのであるが、ここ2、3日で思うことに変化がある。

こうして犯人の彼についてはいろいろな意味づけをされて、社会が悪いだのなんだのと分析してくれるけれど、果たして被害者となった、特に亡くなられてしまった7名の方にとっては、この事件はなんだったのか。
ハッキリ言って、彼がそういう孤独感に苛まれて事件を起こしたところで、「甘えんな、バカ」とは言えても、その事件に巻き込まれ亡くなられた方にとって、運悪くその場にいてしまったがために命を落としてしまったということに、何の弔いの言葉が言えるのか、ということを考えてしまうのだ。
人生は常に自らの選択、ということを考えるとき、「そこに行ったこと」は確かにその選択の一つであったとしても、そこで事件に巻き込まれることまでは自分の判断としてはどうにもならなかったことであり、それに対して、ただ「不運だったから」としか言えない、それで人生が終わっちゃったことに対しては、誰が責任をとってくれるでもなく、なんだか理不尽以上に、本当に"どうしようもないこと"だったのかが、すごーくひっかかるところなのである。
それが運命だった、のかもしれないけれど、そんなもんじゃあきらめきれないというか、なんかそれはどういう世の中の仕組みだったのか、なんて、それこそナイフが悪いとか、ネット社会が悪いとか、派遣が悪いとか、彼が犯人に仕上がってしまった社会の仕組みや彼の周りをどう暴いて分析していこうが、被害者となった人に対しては、そんなのは何の気休めにもならなくて、何をどうしうようと済まないような気がするのだ。
と、私が思うくらいだから、その関係者や、特に親御さんとかは、本当にやるせない気持ちというか、何をどうすれば、って気分でしょうがないんだろうと思う。

で、それを私が思ったところでどうとか、世の中には自分にはどうしようもないことが起きるから、常に備えておきましょうとかいうような、そういうまとめはないんだけど、なんか、事件が起きるたび、加害者に対しては掘り下げられていくけど、やっぱ被害者軽視と言うのかどうかわからないけど、どうして彼らが死ななきゃいけなかなったのか、彼らの死は今後何につながっていくのか、なんて視点もあってもいいんじゃないかという気がした。


それにしても、今回の事件は犯人と被害者以外に、周りでケータイで写真撮ってた人たちとか、救命活動に取り組んだ人とか、なんか今の世相がいろいろと映し出されているところがあって、一つ特殊な例ではなく、すごーく象徴的な事件にはなっているように思うのだが、だからこそより詳しく分析して、本当に二度と同じような事件が起きないような取り組みを早急にするようにしていかないと、今が、この対策をきちんと取れるかどうかがこの国がどっちに転ぶかの分岐点になっているという気がします。
でもそれは「国が悪い」とか「社会が悪い」とか、それこそこの犯人のように他人のせいにしたり、他人任せとかではなく、我々一人一人の取り組みとしても、何かをしていかないといけないのでしょうね。
小さなことからでも。

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このページは、zyoyatakuが2008年6月21日 00:04に書いたブログ記事です。

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