そもそも芝居は必要なのか?(第3回TA-netシンポジウムを受けての考察)

「芝居に字幕は邪魔なのか?」って、比べてるものの基準が微妙に違うところにありながら、その本質的に深い問題をはらんでいるんじゃないかっ!?っていう結論に至ってしまった私。

先日、3月19日、20日とセゾン文化財団森下スタジオで開催されましたTA-net(シアター・アクセシビリティ・ネットワーク)主催の観劇支援セミナー&国際シンポジウム。TA-net主催のシンポジウム自体は今年で3年目&3回目で、なんやかやで一昨年、昨年、そして今年と3回とも巻き込まれるようにお手伝いするハメになっている。
(今回、2日にわたり行われたセミナー&シンポジウム。テーマとか内容はこちらの紹介を読んでね。http://blog.canpan.info/ta-net/archive/355

TA-netというこのこの団体。(http://ta-net.org/)
演劇・芝居への情報保障を考えて、実践されるよう各方面に働きかけ&サポートしていく団体なのだが、私、演劇なんて1年に1回くらい見るか見ないかの感じだし、字幕付公演だって今まで片手で数える程しか見たこと無いのに、そんな私がお手伝いしてるって、「俺はなんでこんなところでこんなことやってるんだろう???」って思いつつ。
今回はUDトークによる情報保障を遂行しながらも字幕もチェックしつつ、なぜか一緒に付くことになったPC要約筆記も向こうに見ながら、全体の会場の様子も確認しつつ、そんで音響担当というあんまやったことないけど、そもそも聞こえない人が多い団体で音に関して分かる人が少ないって事で他にやる人もいなかった結果、私にお鉢が回ってきて、ほんで当日は音もチェックしつつ、磁気ループにも気を配りながら、という、なんやかやで正直、いろいろなものをチェックしている状況により結構内容を把握できる立場になってて、余裕そんなにないくせに、ある意味一参加者としても非常に楽しんでました。

そう、今回のシンポジウムの内容が前回2回と比べてもすごく良かったんですよ。もうこんな小さなスタジオでやらずに、1000人規模くらいのホールでやってもいいんじゃないかってくらいに。というか、そのくらいの人達には知ってほしい内容でした。

っていう長い前置きをしつつ。

今回、イギリスから、演劇・舞台での字幕を提供する会社、StageTEXT社のメラニー・シャープさんをお迎えしてというのが大きかったんですが、日本での状況も日本の登壇者(って、まとめちゃったよw)にあれこれ訴えてもらいつつ、話を聞いてていろいろなことを考えました。

情報保障・・・まあ今回セミナー・シンポジウムのテーマにした"字幕"で考えると、字幕の享受を受けるのは主に聴覚障害者(いろいろ異論もあろうがとりあえず)。その"障害者"って括りにすると福祉だし、それなら国や地方自治体からお金出してもらわないといけませんね、ってことなんだけど、そもそも日本は文化的資質が低いからかなんなのか、演劇や舞台に公的資金は出てきていないのに、さらにその上で障害者対応なんてしてられません!って感じで福祉からも見放されてる。そこがイギリスとは大きく違う。
そういうことで、福祉では対応してくんないとなると、いざ民間の団体がやろうとしても、小さいところはそもそも予算がないし、大きな所はより商業的なので、かけた予算に見合ったリターンがないとやらないって姿勢が見えてて、実際のところ見合った程にお客として入らないので「じゃあ、やりません」ってことになってしまってる。そこはまあ悪循環だけど、やらないから興味持たないし、興味ないから行かないしお客にもならないし。ってことで、お金の問題はこれで手詰まり。

でも、お金の問題じゃないんだよね、本来。
情報保障って、生きていくための権利なわけで、メラニーさんも「アクセシビリティは権利であり平等。コストとは別に考えるべき」とか「例え1人でも鑑賞をしたいという人がいれば、そのアクセスは保障されるべき」と何度も言っていた。
その通りで、本来得られるべき情報を障害により得られない場合、その人が生きていく上で不都合も生じるわけで、人にはそれを得るための権利がある。そう考えると、その本来得られるべき情報を得るのが日常生活だろうと、余暇中の出来事であろうと、情報保障はどこででも完遂されていなければならない。
日本国憲法第25条にもうたわれている通り、【すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。】のであるからにして、文化的な場面でも、最低限の生活を営むために情報保障はなされるべきなのである。
セミナーのテーマを根本から覆すなら、「字幕は邪魔」とか言ってる場合じゃなくて、「字幕は必須」なのかもしれない、ってところに思いを寄せなければならない。
まずはそういう意識を持つところから始めなければならない。

そうは言ってもお金は必要なんだよね、という堂々巡りの議論が2日目のシンポジウムでも繰り広げられてた。
で、イギリスとしては法律もあるし、国から結構な補助が出てるっていう話もあって、お金の面の解決は日本もそうすべきなんじゃいの、という雰囲気もあった。
でも、日本にも「障害者差別解消法」って法律が出来たけど、努力義務だけで強制力もないし、そもそも公的サービスの通訳派遣だって、私的理由には派遣しません、って所も多々あって、日本国憲法第25条の続き、【国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。】すら守られていないように思わせる現状。

国が考える"生活部面"ってのは、なんなんだろうか。
つい最近も働き方改革とか言ってるけど、その規制が「通常で60時間、繁忙期は月100時間で、年間で720時間の残業は認める」とかってことになってしまった。法律上の労働時間が、月160時間だから、通常でも1.4倍、繁忙期は1.6倍は働きなさいって国が認めてしまってる。認めた、というのは、ある意味推奨である。
ちょい待て。そんなに働いたら余暇の時間がなかろうに。
世の中には残業を禁じる国の法律とか、余暇のために手当を出す国の法律まであったりするのに、日本にはそういう発想はない。余暇に何かをしなさい、という考えもなければ、そもそも余暇すら与える気すらない。
そういうことだから国としての"生活部面"っていうのに余暇は含まれない。
だから、芝居なんてもってのほか。
余暇に芝居を見に行くのは、"生活部面"に含まれる物ではなく、プラスアルファの上に成り立つ嗜好贅沢なものであって「贅沢は敵」であり「欲しがりません、勝つまでは」みたいな発想の元に、日本って文化的な催しってのは制限されているように思える。
いつまでも戦中だよ日本。
とにかく勤勉に働いて、贅沢は言わない。そういうのが美しい日本人。
そしてそういう戦中道徳が未だ清く美しいものとして、教育勅語なんてものが復活した方がいいっていう思想を大臣が述べちゃったりするような国、日本。
そういう貧しい発想にあるから、芝居にお金も出てこないし、それに付随させる情報保障にもお金が出てくるはずもない。

日本では国として芝居に字幕どころか芝居そのものも必要とされてない。
行きつくところまで考えるとそうなる。
極論だがそうなる。

さて、そこにどうやって抗うのか。
今はオリンピック・パラリンピックを契機に、外圧も含めてムードを変えようという流れにあることはある。
確かに明治維新も黒船でやってきた人達に追いつけ追い越せだったし、戦争が終わってアメリカっぽい国になろうねってことでやってきて今に至る。
今度もまた、オリンピック・パラリンピックを他の国と同じように、他の国より立派にやれるようにって考えて、そのためにお金が出てきやすくはなっている。それは悪いことではない。
が、それだけでいいのか?
国の姿勢を変えるのに、国に頼るばかりでいいのか?
オリンピック・パラリンピックが終わっても継続していけるのか?

さっき、日本は文化的資質が低いから公的資金も投入されないのかもって書いたけど、地方では神楽とか残ってるところ多いし、地場歌舞演劇的な要素を持ったお祭りも多くて、ホントは日本に人には元々文化的資質があり、歌舞音曲を好む素養があるはずなのだ。ダンスが学校の授業に取り入れられる程流行ってしまったり、阿波踊りやよさこいが全国に広まっていくのは、歌ったり踊ったりが好きな国民性があるからだろう。
(少々強引だが)芝居もそれに近いものではないのか?
日本に数多ある神社には、必ずと言っていいほど舞舞台が備わっている。都会にも。小さな劇団がたくさんある。
そういうところはお金がないからと情報保障を諦めてはいけないし、何より、障害者を切り捨ててはいけない。
町・街に共存する人達と、みな一緒に楽しめるようにする必要があるのではないか。
メッセージを伝えたいなら、より広く多くの人に届けられるようにしよう。お金がないなら工夫するしかない。しかし、今ならいろんな方法がある。
国が清貧を説くなら、地域社会は共助を訴えよう。村八分を生み出すような構図は時代遅れだと地域社会に突きつけて、地方自治体からお金を落としてもらうような仕組みを作るのはどうだろうか。
国と地方自治の独立をここでも進めよう。

そして。
これまで情報保障に積極的に取り組んできた劇団は、そういう事を考え、内容もそうした障害者を含めたような芝居だからこそ取り入れているからこそであって、そうでなければ情報保障なんてやらない、という意見もあったのだが、正直、そういう劇団の芝居は斬新で、面白い。
仲間に入れてこなかった障害者が入ることで、新しいものの見方や、今まで取り組んでこなかった情報保障を取り入れることで伝え方の工夫を考え抜き、今までと違う刺激、発想の転換が生まれているから、観ている側にもそれが伝わる。
芝居が新しいものに変わる、芝居の可能性を見せているように思う。
字幕を付けるとお客が来ないとか、そういう劇団もあるみたいだが、そもそも字幕が邪魔とか、手話通訳が邪魔とか、そういうことを言う前に、新しい手法の芝居というものに取り組もうという気概はないのだろうか。
芝居を作っていく自由な発想の中に情報保障も取り入れて、そこから生み出される新しい芝居、というものを作りあげてはどうだろうか。日本語の問題云々もあるのなら、それこそそれは日本オリジナルのものを作ってみたらいい。
シンポジウムでも、情報保障を行うかどうかは結局はモチベーションなんだ、というところに落ち着いていってたのだが、そのモチベーションを持つために、今一度芝居というものを根本から見直してみる、ということも必要なのではないか。
芝居で"すべての情報を伝えるのは必須"と思えば、余計にお金をかける必要もない。
そこにかけるお金はもう芝居を作って行くことに込みなのだ。
そんな芝居を作り上げる姿勢。
そして、そんな情報保障が普通に行われている芝居を見ることは生きていくことに必要、と訴えかける姿勢を持って、国に芝居も生活の中の一つ、ということで公的資金をゲットしていくような逆説的な手法を考え出してみてはいかがだろうか。

芝居によって国を変えてやる、くらいの芝居が必要だろう。
そういうモチベーションこそが今の芝居には必要なのかもしれない。
(と、意気込みすぎてもアレなので、まあ冗談半分、本気半分くらいでさ。)

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このページは、zyoyatakuが2017年3月24日 22:08に書いたブログ記事です。

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