zyoyataku: 2008年6月アーカイブ

mixi日記で
>「てりやきソース」って使ってる時点で、てりやきじゃないよね。
>この偽装はいいのか?
なんてことを書いてみたんですが、書いてみて、「あ、そうか」と思った。
こういうあからさまな偽装?ってのは誰も問題視しないというか、最初から嘘ってわかってるものはいいのかってことで、隠れてやるからとか、それによって誰かが儲けちゃうことに人は腹が立つってことなのかなぁ、と。
でも、うなぎの件とかはすっごく手のこんだ形でやられてるけど、例えばフグとかは、「本場下関産」とかにしちゃうとやっぱ少し高く売れるわけで、で水産物ってのは最終的に水揚げしたところが産地になるらしいので、どこで獲ったかわからないようなフグでも、最終的に下関に卸しちゃえば「下関産」になるそうで、それで全国に下関産のフグがあふれかえって、消費者は高くフグを買わされてる、なんてことが起きている。
そういうのをふまえてみると、隠れてんだか隠れてないんだかわからない偽装なんてものはたくさんあって、だいたいの人は「そんなもんだよな」って割り切ってる感じがする。

でも、この問題って、よくよく考えると、うなぎでもフグでも美味しく食べられりゃそんなに違いはないはずなのに、なんでそんな産地で値段の差が出てくるのか?ってところに問題があるような気がする。
まぁ養殖のうなぎの場合は手のかけ方が違うのかもしれないけれど、それでも例えば中国で浜名湖と同じようなやり方で養殖したとしても、絶対に中国産の方が安いわけで、そういうブランド信仰というか、逆に言い換えれば、よその国の人件費の安い労働力を買いたたいておいて安くしてるってのは、ある意味もうそれだけで搾取なんじゃないかと思えるわけで、格差社会がどうこう言うけど、よその国の人が安い賃金のまま働かせられるのはいいの?ってところにも、すでに目を向けなきゃいけない時期にきてるんじゃないか、という気がする。

サミットで反グローバリズムの団体とかが暴れてたりするけど、そういうあんた達も外国から来てんじゃん、とかそういう矛盾もあったり、すべてが地産地消とはいかないわけだから、結局世界は一つ、みたいな考え方で取り組んでいかなきゃいけないんだろうな。
でも、それ考えると、世界の紛争は貧困が原因とかいう問題も含めて解決できそうな気がするんですが・・・。
正論を吐くと、非難をされる。
正しいことは耳に痛いことだ。
誰も聞きたくはない。
そうして、正論は誰の耳に入ることもない。
そう思っていた。

でも、十人十色。
やはり一人くらいは聞いてくれる人もいるものだ。
そしてその正論を、また誰かに伝えて、
そしてまた一人は耳を傾けてくれる。

積み重なっても
たいした数にはならないだろう。
けれど、確実に、その思いは伝わっていく。
必ず誰かは思いを受け取ってくれるのだ。

そうして人の思いは
受け継がれていく。
きっと肉体が滅んでも、
魂を残すことはできるだろう。

あきらめなければ。
手のひらで水をすくってしばらく経つと、いつの間にか水は手のひらから消えてしまう。
消えてしまうというよりも、指の間から、隙間から、染み出していってしまう。
何度も、手のひらに残るようにすくってみても、固く手を閉じたつもりでも、水は手のひらからこぼれおちている。
すべては元の黙阿弥だ。

そんな感じで、どんなに手を尽くして頑張ったと思っても、結局何もなしえていなかったと思えることがある。
誰かを救おうとして、結局は独りよがりで、誰も救えていないって思うことがある。

そんな無情感にさいなまれながらも、それでもすくってしまう。
きっと今度こそは残せるのではないかと。
何度も何度でも。
もしかしたら永遠に無駄な時を過ごしているのかもしれないのに。

こぼれ落ちたものはどこへいくのか。
もしかなうなら、地面に落ちて、草花に栄養を与えるものになってほしい。
私の手に残らないのなら、あなた自身が誰かの役に立ちなさい。

そう願ってやまない。

無題

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私では頼りないですか?
求めるものが違うのですか?

ただ私は少しだけ力になりたいだけなのに。
何もできない自分がもどかしい。

どんな力が自分にあればいいのか。
どうすればいいのか。
まだわかっていないのです、私は。

誰かのためになんておこがましいと
そう言われたところで、
今の私はまだその程度なのです。

ただそこにあって
それだけでいいなんて、
そんな人にはなれそうもありません。

だから力を求めてしまいます。
誰もを救える力を。
圧倒的な力を。

そんなものが手にはいるはずもないと
わかっているけれど。

でも道は遠くても
時間は無限ではないのです。

私はどうすればいいですか?
NHKで秋葉原の事件の特集をやっていた。
あれからやはりこの事件についてはいろいろ考えていて、彼がなぜそうなったのかとか、まさに番組でも触れていたようなことをつらつらと思っていたというか、まぁ私としてもいろいろあるもんで、いろいろ思わざるをえなかったというか、そういうことで、正直、なーんか気分は優れないのであるが、ここ2、3日で思うことに変化がある。

こうして犯人の彼についてはいろいろな意味づけをされて、社会が悪いだのなんだのと分析してくれるけれど、果たして被害者となった、特に亡くなられてしまった7名の方にとっては、この事件はなんだったのか。
ハッキリ言って、彼がそういう孤独感に苛まれて事件を起こしたところで、「甘えんな、バカ」とは言えても、その事件に巻き込まれ亡くなられた方にとって、運悪くその場にいてしまったがために命を落としてしまったということに、何の弔いの言葉が言えるのか、ということを考えてしまうのだ。
人生は常に自らの選択、ということを考えるとき、「そこに行ったこと」は確かにその選択の一つであったとしても、そこで事件に巻き込まれることまでは自分の判断としてはどうにもならなかったことであり、それに対して、ただ「不運だったから」としか言えない、それで人生が終わっちゃったことに対しては、誰が責任をとってくれるでもなく、なんだか理不尽以上に、本当に"どうしようもないこと"だったのかが、すごーくひっかかるところなのである。
それが運命だった、のかもしれないけれど、そんなもんじゃあきらめきれないというか、なんかそれはどういう世の中の仕組みだったのか、なんて、それこそナイフが悪いとか、ネット社会が悪いとか、派遣が悪いとか、彼が犯人に仕上がってしまった社会の仕組みや彼の周りをどう暴いて分析していこうが、被害者となった人に対しては、そんなのは何の気休めにもならなくて、何をどうしうようと済まないような気がするのだ。
と、私が思うくらいだから、その関係者や、特に親御さんとかは、本当にやるせない気持ちというか、何をどうすれば、って気分でしょうがないんだろうと思う。

で、それを私が思ったところでどうとか、世の中には自分にはどうしようもないことが起きるから、常に備えておきましょうとかいうような、そういうまとめはないんだけど、なんか、事件が起きるたび、加害者に対しては掘り下げられていくけど、やっぱ被害者軽視と言うのかどうかわからないけど、どうして彼らが死ななきゃいけなかなったのか、彼らの死は今後何につながっていくのか、なんて視点もあってもいいんじゃないかという気がした。


それにしても、今回の事件は犯人と被害者以外に、周りでケータイで写真撮ってた人たちとか、救命活動に取り組んだ人とか、なんか今の世相がいろいろと映し出されているところがあって、一つ特殊な例ではなく、すごーく象徴的な事件にはなっているように思うのだが、だからこそより詳しく分析して、本当に二度と同じような事件が起きないような取り組みを早急にするようにしていかないと、今が、この対策をきちんと取れるかどうかがこの国がどっちに転ぶかの分岐点になっているという気がします。
でもそれは「国が悪い」とか「社会が悪い」とか、それこそこの犯人のように他人のせいにしたり、他人任せとかではなく、我々一人一人の取り組みとしても、何かをしていかないといけないのでしょうね。
小さなことからでも。

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